海に着いた。

連休明けの朝だからだろうか。
いつもは何人も見かける釣り人も、
今日は一人か二人ほど。

遠くから、船の汽笛が響いてきた。
カモメたちの鳴き声。
海の向こうでは、
何かの明かりが点滅している。
あれは何の合図なのだろう。
誰かに向けて送られている、
小さなサインなのかもしれない。

そんなことを思いながら、
私はいつもの海を眺めていた。
今朝の空は、不思議な表情をしていた。
さっきまでモコモコと浮かんでいた雲が、
いつの間にか、
なめらかな白へと変わり始めている。

そして、水平線の向こう。
白ともグレーとも群青とも言い表せない色が、
幾重にも層をなして重なっていた。
そのあわいから、
限りなく透明に近いブルーが覗いている。

雲間にひょっこり顔を見せる朝陽。
その光が、幾層もの雲を通り抜け、
空の色を少しずつ変えていく。
なんて複雑で、
なんてドラマチックな朝なのだろう。

けれど、私はこんな空が好きだ。
光もあれば影もある。
白もあれば、昨夜の群青世界の名残りもある。
すべてがひとつに溶け合っているようで、
決して同じ色にはなっていない。
黒と群青と白、その三つのあわい。
モノクロームというには、
あまりにも表情が豊かだった。

グレースケールと呼ぶには、
そこに青い命が息づいている。
これは、私の心ではないだろうか。

昨日、一昨日。

いろんな思いが交錯し、
心が折れそうになった時間。
そのひとつひとつが、
今朝の空には幾層もの色となって
残っているように思えた。

けれど、朝の光は、
その色を無理に消そうとはしていない。
ただ静かに包み込み、
少しずつ白へとほどいていく。

そう。

心の曇りを抱えていることと、
心が輝いていることは、
決して矛盾しないのだ。

そんなことを、
今朝の空が教えてくれているようだった。

水面に目を移した。
風に吹かれ、ゆらゆらと揺れる海。
小さな波が岸壁に当たるたび、
チャプチャプと音を立てている。

この水鏡は、
これまでどれほど多くの人たちの心を
映してきたのだろう。
嬉しい朝も、悲しい朝も。
心が折れそうになりながら、
それでも立ち直って、
新しい朝を迎えた人たち。
きっと、そんな人たちの姿を、
ずっと見守ってきたのだろう。

では、今朝の私は、
どんなふうに映っているのかしら。
昨日の私より、
ほんの少しだけ輝いているだろうか。
もしそうなら、その輝きは、
何か特別なものを手に入れたからではない。

折れそうになる心を、ぐっと支えたこと。
それでも、もう一度前を向こうとしたこと。
心の粘りが、
小さな光となって私の内側に
宿ったのかもしれない。

そう思うと、水面に映る朝の光が、
なんだか愛おしくなった。

風さん。

風、気持ちいいね。
海から吹いてくる風は、少し冷たい。
けれど、とても爽やかだった。

潮の香りを含んだ風が、
頬を撫で、髪を揺らし、
身体の中をすっと通り抜けていく。
まるで、頭の中に残っていたモヤモヤまで、
外へ連れ出してくれるようだった。

手袋を忘れてきたことも、
もう気にならない。
私は、少しずつ軽やかになっていく
自分を感じていた。

そして、
心のサンクチュアリーにたどり着いた。
ここへ来ると、
いつも不思議なほど心が静かになる。
空と海。
ただ、それだけの世界。

けれど、今日はひとつ、
いつもとは違うものを見つけた。
水鏡の上に、二筋の道ができていたのだ。
波と波がぶつかり合って
生まれた筋なのだろうか。

それぞれ別のところから伸びてきた路が、
遠くでひとつに重なっている。
私は、その流れをじっと魅つめた。
二筋の水の路。

それは、今朝の星空で考えた、
人と人との心のつながりにも似ていた。
それぞれが、それぞれの時間を歩いてきた。

異なる場所で生まれ、
異なる景色を眺め、
異なる思いを胸に抱いて。

けれど、ある日、ふたつの路が出逢う。
そして、同じ時間を重ねていくうちに、
少しずつ心が通い合うようになる。

初めからひとつだったわけではない。
出逢いを重ねることで、
互いの心が響き合っていく。

今朝、星空から教えてもらった言葉。
心の共鳴。
水鏡の二筋の路にも、
そんな美しい調べが
流れているような気がした。

今日、これから始まる時間も、
そんなふうに、
ふたつの心が
静かに響き合う時間になればいいな。
そして、その道の先に、
朝の柔らかな光が差し込んでくれたら。

私は、そんな小さな願いを、
水の流れる先へとそっと預けた。

再び、空を見上げた。
今朝の空は、
なんとドラマチックなのだろう。
幾重にも重なる雲。
光と影。
白とグレー、そして群青の余韻。

まるで、私の複雑な心模様を、
そのまま大空に広げたようだった。

ところが、その雲の中に、
ぽっかりと
丸い穴が開いていることに気づいた。

あら。
あの向こうには、何があるのだろう。
穴の奥に見えていたのは、
限りなく透明に近い、淡いブルー。
今朝見つけた星たちが、
白いベールをまとって、
静かに溶け込んでいるような空だった。

そこだけ、
別の世界につながっているように魅える。
なんだか、トンネルの入口みたい。
空へと続くトンネル。
いや、心へと続くトンネル。
そして、心と心をつなぐトンネル。

あの入口から向こうへ進んでいけば、
まだ知らない心の風景に出逢えるのだろうか。
そして、その道の先では、
異なる二つの心が、
もっと深く響き合うことができるのだろうか。

そんなことまで考えていた。
けれど、ふと思った。
心のトンネルは、
ひと息に駆け抜けるものでは
ないのかもしれない。

一歩ずつ進みながら、
少しずつ相手の心に近づいていく。
ときには立ち止まり、
ときには振り返りながら。

そうして初めて、
向こう側に広がる景色が魅えてくる。
だったら、急ぐ必要なんてない。
今日という一日も、
その道を歩く大切なひとときなのだから。

ふわり。

また、風が吹いた。
風さん。
なんだか今朝は、
心の中にたくさんの
新しい路ができたみたいね。

水の路。
星の路。
そして、心へと続くトンネル。

どの路も、まだその先が見えない。
けれど、見えないからこそ、
歩いてみたくなるのだろう。

やがて、
私は心のサンクチュアリーを後にした。
大さん橋の上を、再び歩き始める。
今朝の空は、
最後までひとつの色にはならなかった。
群青の名残りを抱きながら、
白へと向かっている。

その姿は、どこか今の私に似ていた。
昨日の思いも、
遠い日の記憶も、
これから訪れる時間への願いも。

どれかひとつを捨てる必要なんてない。
みんな私の中にあっていい。
そして、それぞれの色が重なり合いながら、
また新しい私を描いていく。

そう思うと、なんだか心が弾んできた。
そして、大さん橋のラインを越えた。
ここで、今朝の心の旅はおしまい。

でも、心の中には、
まだ二筋の水の路が流れている。
あの路が、
どんな光の中へ続いていくのか。
それは、これからのお楽しみ。

さあ、今日も一日。
風の向くまま。
気の向くまま。
そして、私の心の向くままに。

あの二筋の水の路が、
ひとつに重なるその先へ。
私は、また歩き始める。


水の路
二筋寄りて
光差す
群青の果て
心重ねて

— Morimura