万国橋の真ん中に立ち、空を見上げた。

ああ、なんて美しいのだろう。

先ほどまでの群青世界は、
いつの間にか白いベールに包まれ、
限りなく透明に近いブルーへと
姿を変えていた。

水平線に近い空には、
ほんのりピンクゴールドの光。
そして、ふわふわと浮かぶ小さな雲たち。
その一つひとつが、
まるで先ほどまで私が旅してきた
横浜物語のように思えた。

ガス灯、乗合馬車、文明開化の街並み。
150年以上の時を越えて、
今も息づく人々の夢。
その記憶の断片が、
空いっぱいに
散りばめられているようだった。

やがて、雲の色が変わり始めた。
ピンクゴールドから、柔らかな黄金色へ。

ああ。

この黄金色には、
どこか懐かしい日本の美しさがある。

今朝、馬車道で感じた大和心。
新しい文化を受け入れながら、
自分たちの美しさを育んできた人々。
その心が、
今朝の雲にも宿っているような気がした。

ふわり。

風さんが、私の頬を優しく撫でた。

「ねえ、森村さん。
ずいぶん遠い時代まで旅をしたのね」

「そうね。
でも、今はこの空を見ていたいの」

私は、静かに橋を渡った。

そして、いつもの海の見える場所へ。
今日は風が優しい。
朝陽も優しい。
空全体が、柔らかな光に包まれている。

ブルー、白、黄金色。
そして、ほんの少しのグレー。
その淡い色彩が、
天空に幾重ものグラデーションを描いていた。 

ふと、空に大きな雲を見つけた。

あれ?

魚みたい。

まるで、大きな錦鯉が
天空を泳いでいるようだった。
けれど、その鯉はまだ真っ白。
何色にも染まっていない。

私は、その白い鯉を魅つめながら思った。

今日一日をかけて。
一か月をかけて。
一年をかけて。
そして、一生をかけて。
この白い鯉に、
少しずつ色を重ねていけたらいいな。

嬉しかったこと。
心がときめいたこと。
誰かを想ったこと。
そして、時には悲しみや寂しさも。

そんな一つひとつが色となり、
いつの日か、
私だけの錦鯉になっていく。

そう思うと、
心の余白が
また少し広がったような気がした。

目の前の水面が、ゆらゆらと揺れている。
風の流れに身を任せながら、
朝の光を映していた。

その水鏡には、
今朝の私の心模様が
映し出されているようだった。

150年前の横浜を旅してきた私。
そして、今という時間を生きている私。
過去も現在も、夢も現実も。
すべてが水面の揺らぎの中で、
ひとつにつながっていく。

街もまた、
こうして時代の流れに身を任せながら、
新しい物語を紡いでいくのだろう。

そして私は、その物語に出逢うたび、
自分の心にも新しい一ページを重ねていく。

ふと東の空を見ると、
太陽が黄金色の光を
幾重にもまとって輝いていた。

その光を受けた空には、
夜の名残の群青と、
朝の白と、黄金色が溶け合っている。

夜と朝のあわい。
過去と現在のあわい。
西洋と日本のあわい。

異なるものが出逢い、
重なり合うところに生まれる美しさ。

私は、そんな「あわい」の世界が好きなのだ。

ふと、ひらがなや大和言葉の
柔らかな響きを思い出した。
そして、平安の世に花開いた
「もののあはれ」の心。
目に映るものの美しさだけではなく、

その奥に流れる時間や、
移ろいゆくものへの想いを感じ取る心。

今朝の私は、そんな日本の美意識にも、
そっと触れたような気がした。

もう一度、空を見上げる。
真っ白な鯉は、
まだ悠々と天空を泳いでいる。

ねえ、白き鯉よ。
今はまだ、そのままでいい。
急いで色をまとわなくてもいい。
私もあなたと一緒に、
これからの一日を、
これからの人生を、
少しずつ彩っていきたい。

ふわり。

優しい風が吹いた。
今朝の横浜物語が、
またひとつ、
私の心の余白に色を添えてくれた。

そして、白き鯉は、
遥かな天空へと泳いでいった。


白き鯉
朝の空ゆく
風に乗り
いつか錦の
色をまとわん

— Morimura