「おばさん、かしわ餅とお茶を一杯!」

威勢よく声をかけた。
ところが、返事はない。

あれ?

そうだった。
ここは峠の茶屋ではない。

新港中央広場のベンチ。

目の前には赤レンガ倉庫。
傍らにはクスノキの女神様。
そして、ふんわりと吹き抜ける海からの風。
それなのに、
私はすっかり
時代劇の旅人になった気分だった。

ふふふ。

どうやら、
馬車道浪漫の魔法が、
まだ少し残っているらしい。

実は、このかしわ餅。
ここへたどり着くまでに、
ちょっとした冒険があった。

今朝、伊勢佐木町を歩いていた頃から、
どうにもお腹が空いていた。
馬車道の時間旅行を終えたら、
どこかでひと休みしたい。
何か美味しいものを食べながら。

さて、何を食べよう。

洋菓子?

いやいや。
今日は、そんな気分ではない。
だって、これから私は
明治の文明開化へと旅立つのだから。

石畳を歩く旅人。
馬車の蹄の音。
道端の茶屋で、
串に刺したお団子を頬張る。

そんな時代劇の一場面が、頭に浮かんできた。

そうだ!かしわ餅!
それも、大好きなこしあん。

ところが、これがなかなか見つからない。
最初に立ち寄ったセブンイレブン。
ない。
ファミリーマート。
ない。ローソン。
やっぱり、ない。
うーん。
どうしたものか。

すでに心は
馬車道浪漫の世界へと向かっている。
それなのに、お腹だけは、
いたって現実的なのである。

とうとう私は、
15分の魔法の旅から一時離脱することにした。

「風さん、ちょっと待っていてね!」

ふわり。

「どうしたの? もう夢から覚めるの?」

「違うの。かしわ餅を探してくるのよ!」

「あらまあ。明治まで旅に来て、
現代のコンビニへ戻るの?」

「旅人にも、いろいろ事情があるのよ!」

こうして私は、
文明開化の世界から令和のコンビニへ。
なんとも奇妙な時間旅行である。

そして、4軒目。
あった!こしあんのかしわ餅。
しかも、残っていたのは、たった一個。

やった!

まるで、私を
待っていてくれたかのようだった。

こうして無事にかしわ餅を手に入れた私は、
再び馬車道浪漫の世界へと戻っていった。

そして、ガス灯の揺らめきに誘われ、
150年前の横浜を
旅することになったのである。

やがて万国橋。
夢の世界から現実へ。
橋を渡り切った頃には、
心はすっかり満たされていた。

明治の文明開化。
大正浪漫。
昭和レトロ。
そして、異国の文化を受け入れながら
育まれてきた大和心。

そんな横浜物語を胸いっぱいに抱えて、
新港中央広場へとたどり着いた。
そこには、いつものクスノキの女神様。

「女神様、今日もひとつお願いがあります」

今日も私の心の余白に、
素敵な色がつけられる
一日になりますように。
そう願った。

けれど、ふと気づいた。

あら?

もう叶っているじゃない。
万国橋で見上げた、
ピンクゴールドに輝く雲。
馬車道で拾い集めた、いくつもの横浜物語。
その一つひとつが、
すでに私の心の余白を
美しく彩っていたのだから。

ああ、今、私の心は満タン。

そう思った瞬間、
またお腹が鳴りそうになった。

ふふふ。

心は満たされても、お腹は別らしい。

そこで、クスノキの女神様の前にある
ベンチに腰掛けた。
おもむろに取り出した、
最後の一個のかしわ餅。
柏の葉をそっと開く。

柔らかなお餅の中には、大好きなこしあん。
ぱくり。
ああ、美味しい。
なんて幸せなのだろう。

目の前には赤レンガ倉庫。
空には、淡いブルーと白い雲。
鳥のさえずり。
虫たちの声。
そして、海から吹いてくる優しい風。
その風に包まれながら、
私はまた、先ほどまでの
時間旅行を思い出していた。

夢から覚めて、現実へ戻ってきた。
でも、心はまだ完全には戻っていない。
ガス灯の炎も。
馬車の蹄の音も。
文明開化の街を行き交う人々の姿も。
まだ、私の心のどこかに残っている。

夢と現実のあわい。
過去と現在のあわい。
そして、旅する心と、
今ここにいる私とのあわい。

ああ。
そうか。

私は今、その「あわい」の中にいるのだ。
だから、このベンチが
こんなにも心地いいのかもしれない。

ふと、ひとつの名前が浮かんだ。

「あわい茶屋」どうだろう。

なんだか、いい響きではないか。
夢から覚めた旅人が、
現実へと戻る途中で、
ほっとひと息つく場所。

旅の余韻を楽しみながら、
お茶をいただき、お団子を頬張る。
そして、心に拾い集めた物語を、
そっと言葉にしていく。

ここは、そんな小さな茶屋なのだ。
もちろん、本物の茶屋があるわけではない。
お茶を運んでくれるおばさんもいない。
けれど、クスノキの女神様がいて、
風さんがいる。
それだけで十分ではないか。

「ねえ、風さん。
ここを私たちの茶屋にしようと思うの」

ふわり。

「まあ、素敵。何という名前にするの?」

「あわい茶屋よ」

「夢と現実のあわい?」

「そう。そして、時代と時代のあわい。
心と心のあわいでもあるの」

風さんが優しく微笑んだ。

「では、看板には何と書きましょう?」

そうね。

『あわい茶屋|時のあわいに、ひと休み。』

ふふふ。

我ながら、なかなか粋ではないか。

これからは、
朝のウォーキングで心の旅を終えたら、
ここへ立ち寄ろう。
ある日は三色団子。
ある日はかしわ餅。
またある日は、お饅頭かもしれない。

その日の気分に合わせて、
好きな和菓子をひとつ。
そして、クスノキの女神様に見守られながら、
朝の序章を紡ぐ。

夢から覚めて、夢の続きを言葉にする。
なんて素敵な時間なのだろう。
そう思うと、今朝の小さな偶然が、
すべてつながっているように感じられた。

お腹が空いたこと。
どうしてもかしわ餅が食べたかったこと。
コンビニを4軒巡ったこと。
そして、最後の一個に出逢えたこと。

どれかひとつが欠けていたら、
この「あわい茶屋」は
生まれなかったかもしれない。

偶然とは、不思議なものだ。
何気ない小さな出来事が、
やがて新しい物語の扉を開いてくれる。
そして今、私はその扉の前に座っている。

ふわり。

風さんが、そっと頬を撫でた。

「ねえ、森村さん。
そろそろ朝の物語を書かなくていいの?」

「あら、そうだったわね」
かしわ餅をいただき、
心もお腹も満たされたところで、
私はスマートフォンを手にした。

さあ。
今日の序章を紡ぎましょう。

でも、その前に。

これから、
この茶屋を訪れるたびに使いたい言葉がある。

「心は満タン。
でもね、旅をすれば、お腹も空く。
そうだ。
あわい茶屋で、ちょっと一服」

お茶を一杯、お餅をひとつ。
クスノキの女神様に見守られながら。

ふう。

ああ、これぞ旅人の幸せ。


2026年10月14日。
横浜の小さなベンチに、
私だけの茶屋が生まれた。

あわい茶屋。
時のあわいに、ひと休み。
そして、今日もまた新しい物語が始まる。


時のあわいに
腰おろし
柏の餅に
旅の香を知る

— Morimura