馬車道を抜け、
万国橋の真ん中で足を止めた。

ふと見上げれば、
空はもう白く明け始めていた。
ふわり、ふわりと浮かぶ灰色の雲。
その一つひとつに、
さっきまで心の旅で出逢った
人々の声が宿っているようだった。

初めてガス灯を見た驚き。
異国の文化を迎える喜び。
変わりゆく時代への戸惑い。
そして、新しい夜明けを待ち望む胸の高鳴り。
そんな幾つもの想いが雲となって、
令和の空を漂っているように感じられた。

ふと水辺の向こうへ目を向ける。

「あっ、クイーン!」

見慣れた街並みの中に、
緑色のドームをいただく
横浜税関の塔が見えた。
何度もこの橋から眺めていたはずなのに、
今朝は初めて気づいたような気がした。

きっと、三塔を知ったからなのだろう。
知ることによって、
見慣れた景色は新しい命を宿す。
優美で気高いクイーン。
その向こうには堂々たるキング。
そして、異国の陽気な風をまとったジャック。

三つの塔を思い浮かべた途端、
私の心に、ひとつの王国が生まれた。
海の向こうの異国と横浜。
その二つの世界の「あわい」に存在する、
まだ名前もない空想の王国。

キングが国を治め、
その傍らには美しいクイーンが寄り添い、
ジャックがいつも二人を見守っている。
なんだか、
そこに生命が宿っているような気がした。

ふふふ。

クイーンが塔の上から、
私に向かって手を振っているように魅える。
こんな三塔が街の空に姿を現したとき、
人々は何を思ったのだろう。
新しい横浜の象徴として、
誇らしく見上げたのだろうか。

いつか、この王国の物語を描いてみたい。
そんな小さな夢が、心の中に芽生えていた。

やがて、虫の声が少しずつ大きくなってきた。
現代の街の音が、
遠い時代の足音を静かに包んでいく。

ああ、15分の魔法が解けていく。
それでも私はまだ、
百五十年の時の流れと、
今という時代の「あわい」を歩いていた。

風がふわりと頬を撫でる。
先ほどまで心に描いていた風景を、
いったん空に映し出し、
もう一度私の記憶へ返してくれるような風。

なぜだろう。
目も、耳も、鼻も、肌も。
そして頭も、心も。
いつも以上に敏感になっている。
ひとつの景色から、
幾つもの想いが生まれ、
言葉があふれ出しそうになる。

五感を研ぎ澄ますとは、
こういうことなのだろうか。
そして、くすの木の女神様の前に立った。

今日は何をお願いしよう。
お願い事は、ひとつだけ。
「三塔が一度に見える三つの場所を、
無事に見つけられますように」

本当は、
もうひとつお願いしたいことがあった。
けれど、
それは今日は胸の奥にしまっておこう。

さて。

五感を研ぎ澄ましながら歩いてきたけれど、
まだひとつ残っている。

そう、味覚。

心は満タン。

でもね、旅をすれば、お腹も空く。

そうだ。

あわい茶屋で、ちょっと一服。

昨日から用意していた柏餅と、お茶。
柏餅をひと口。
お茶をひと口。
そして、空を見上げる。

そこには、先ほどまで心の旅で感じた
幾つもの想いが、
灰色の雲になって浮かんでいた。
その雲に、朝のピンクゴールドが
そっと差し込む。

雲が消えたわけではない。
けれど、光を浴びた途端、
灰色の雲までもが美しく輝き始めた。

明治の人々が待ち望んだ新しい夜明けも、
こんな色をしていたのではないだろうか。

喜びも、不安も、戸惑いも。
すべてを抱きながら、
なお未来に希望を見いだそうとする人々。
新しい夜明けとは、
きっと心の中にも差し込む光なのだ。

そんな想いが、
柏餅のやさしい甘さとともに
胸に染み込んでいった。

あわい茶屋を後にすると、
海からの風は思いのほか冷たかった。

「ああ、寒い!」
どうやら、
すっかり今の私に戻ってきたらしい。
そして、いつもの海へ。
船の汽笛が響く。
目の前には、淡い群青の世界。

雲の向こうから、朝の光が差し込んでいる。
風に揺れる水面には、
小さな波が幾重にも重なり、
次々と流れていく。
私にはそれが、
百五十年の時を生きた人々の
鼓動のように魅えた。

ひとつ、またひとつ。
数えきれないほどの鼓動が、
今もこの海を渡っている。

そして、その列のいちばん後ろには、
きっと今の私の鼓動も重なっているのだろう。
そんなことを思いながら空を見上げると、
不思議な光景が広がっていた。

雲の向こうから、
まるで雲をかき分けるように、
三筋の光が伸びている。
その一本一本が、
あの三塔の方角を
そっと指し示しているように魅えた。

今朝の私に、
三塔の物語へ光を当ててごらんと、
空が静かに告げているような気がした。

白絹の雲から始まった朝。

星を追い、
天空を旅し、
文明開化の街へと心を遊ばせた。

そして今、私は再び、
令和の横浜に立っている。

けれど、心の旅はまだ終わっていない。
今朝の三筋の光が、
私に新しい道を示してくれたような気がする。

さあ、今日は大さん橋へは行かない。
三塔を一度に見渡せる三つの場所を、
自分の足で探してみよう。

あの王国には、
どんな物語が待っているのだろう。
そんな期待を胸に、
私は赤レンガ倉庫へと歩き始めた。

天空から地上へ。
過去から現在へ。
そして、まだ見ぬ物語の世界へ。
今朝の私の好奇心は、
どうやらまだまだ眠りそうにない。

— Morimura