あわい草子|創作に向かう内なる声〜清らなる時、その先へ〜
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『清らなる時』より源氏物語人形展が、
古刹として知られる
滋賀県大津市の石山寺で開催されるそうです。
「源氏物語」が好きなので、
ぜひ行ってみたいなと思いながら、
ポスターを見ていました。
石山寺は、
季節ごとの花も見ごたえがありますが、
紫式部が「源氏物語」を起筆した
という伝説でも知られています。
時の権力者、藤原道長の娘・中宮彰子に
新作を請われ、
本堂に7日間籠って成就を祈願。
琵琶湖から流れ出でる川に
十五夜の月が映るのを眺めているときに、
構想が浮かびました。
それは、須磨に退いた光源氏が
都を回想する場面に
生かされたといわれています。
紫式部は、同じ名門の藤原氏に属したものの、
零落し、父は漢学者で地方の国司でした。
夫とは早くに死別し、
幼い娘だけが残されました。
今でいうと、
幼な子を抱えてこれからの生活に
不安を覚える未亡人のようです。
そして、何とか見つけた就職先が、
中宮様のお世話係というところでしょうか。
高貴な方々の雅な毎日を垣間見ながら、
紫式部はどのような心を持って
「源氏物語」を書くに至ったのでしょうか。
現実逃避? 妬み? 怒り? 願望? 憧れ?
晩年にまとめた自選歌集「紫式部集」の和歌に
その手がかりが残されています。
心だに
いかなる身にか
かなふらむ
思ひ知れども
思ひしられず
「どのような身の上ならば、
自分のちっぽけな心は
満足するというのだろう。
満足することはないとわかっていても、
心の底では諦めきれない」
この歌から、自分の心次第で
世界をつくることができるという気持ちが
生まれ、
「源氏物語」を創作するきっかけに
なったのではないかということが
うかがわれます。
「源氏物語」では、
光源氏や姫君たちに成り代わり
790首余の歌を詠んだ紫式部を、
作家の三島由紀夫は
「七色の声」と喩えました。
創作というのは、
自分の心が思うままのどんな世界をも
創り出すことができます。
たとえ現実には叶わぬ
夢のようなことであったとしても、
物語の世界ではそれは現実であり、
どんな役でも好きなように
演じることができるのです。
もしかしたら、紫式部は、
光源氏のまわりの女性たちに
自分を重ね合わせていたのではないかと、
ふと感じました。
創作へと向かう内なる声は、
水辺の風景に身を寄せ、
清らなるときを過ごし、
憂愁を忘れることで
解き放たれたのかもしれません。
時のあわい|あれから、五、六年
あれから、五、六年。
かつて書いたこの文章を読み返し、
私は最後の一文で思わず立ち止まった。
ああ、これは今の私ではないか。
『清らなる時』を書き始めたきっかけは、
七十二候の本との出逢いだった。
季節の微かな移ろいを映した
大和言葉に魅せられ、
身近な草木や風、
旬の食べ物、
人々の暮らしに目を向けるようになった。
ほんの些細な変化にも、
もののあはれが宿っている。
その気づきを、
つれづれなるままに書き留めたかった。
昨日までは目に留まらなかった木の芽が、
今日は小さく膨らんでいる。
風が変われば、食卓に並ぶものも変わる。
季節とは暦の中にあるだけでなく、
私たちの暮らしの隅々に
息づいているのだと知った。
『清らなる時』という名には、
生まれたばかりの子どものように、
何の色にも染まらない眼差しで
世界を魅つめたいという願いを込めた。
書くことが好きになるほど、
見ることも、聴くことも、
感じることも好きになった。
ただ、あの頃はまだ
「何かを書こう」という意識が、
私の心を動かしていたのかもしれない。
今は、少し違う。
横浜の朝、風に身を任せて歩く。
意識して心を空にしなくても、
いつしか余白が生まれている。
群青の空に心を映し、
水鏡に時の流れを感じる。
光や風が、心の奥にしまわれた記憶を
そっと呼び覚ます。
かつては心のサンクチュアリーで、
何も考えない時間をつくろうとしていた。
けれど今は、
そんな努力さえ必要なくなったように思う。
空っぽになることは、
何も感じなくなることではない。
むしろ、そこへ新しい景色を
迎え入れるための、
豊かな余白を持つことだった。
その記憶が目の前の風景に触れると、
一つの点が生まれる。
別の記憶と結ばれて線になり、
さらに面となり、
いつしか物語へと姿を変えてゆく。
今日、それを私は身体いっぱいに感じた。
星に逢いたくて始まった朝。
雲の綻びから光を探し、
三つの星が描く三角形を見つけた。
そこから思いは横浜三塔へとつながり、
キング、クイーン、ジャックを
眺める旅になった。三
塔の存在を知ったのは、ほんの2日前。
けれど、三つのビューポイントを
自分の足で巡るうち、
同じ塔が立ち位置によって
まったく違う表情を見せ始めた。
王の威厳。
女王の気品。
そして、民の声に耳を傾ける忠臣の優しさ。
赤レンガパークではクイーンが光をまとい、
象の鼻ではジャックが物陰に隠れ、
日本大通りではキングが
堂々と王の顔を魅せた。
三つを別々に見るのとは違う、
目には見えない関係が、
私の心の中に浮かび上がった。
私の中で塔は生命を宿し、
海の向こうには美しい宮殿が立ち上がった。
ビスカウト王国。
最初から王国を書こうと
考えていたわけではない。
歩きながら感じたものが次々と結ばれ、
物語の方から私を訪ねてきたのだ。
そこには、誰かに魅せるために
整えた世界ではなく、
私だけがその瞬間に感じた、
生まれたての世界があった。
だからこそ、早く言葉にして、
あの輝きが消えないうちに残したいと思った。
その瞬間、胸が熱くなった。
鼓動が速くなる。
歩き続けたせいなのか、
感動のせいなのかはわからない。
それでも、創造の世界があふれ出そうになる、
あの身震いするほどの喜びは
忘れられないだろう。
五、六年前、私は紫式部の心を思い描き、
「内なる声」が
解き放たれるのかもしれないと綴った。
今は、その声が私の中から
自然に湧き上がるのを感じている。
心を解き放つとは、
記憶を消し去ることではない。
積み重ねてきた記憶が、
今という時の光を浴びて、
再び輝き始めることなのかもしれない。
石山寺の月と、横浜の星。
琵琶湖の水と、横浜の海。
あの頃、他者の創作の源を尋ねていた私が、
今、自分自身の内なる声を聴いている。
『清らなる時』は、
過去に置いてきたものではなかった。
あの頃の清らかな眼差しは、
今も私の中に息づいている。
ただ、ひとつ違うことがある。
あの頃は、心に映る風景を書いていた。
今は、心に映る風景から、
新しい世界を創り出している。
五、六年前の私が結んだ一文に、
今日の私が、小さな返事をしている。
その声は、確かに解き放たれていた。
そして今も、静かに、豊かに、
私の中で響き続けている。
風の向くまま、気の向くまま。
私はこれからも、
時のあわいに心を遊ばせながら、
まだ見ぬ物語に逢いにゆきたい。
— Morimura