光の道に誘われるように、
私はもう一度クイーンの塔を魅つめた。

エメラルドグリーンのドームが、
白み始めた空にすっと伸びている。
昨日も何度となく眺めたはずなのに、
今朝は不思議と、
塔だけでなく建物全体から目が離せなかった。

屋上の縁や建物の低い部分に連なる、
波形の装飾。
胸壁を彩る小さな曲線が、
遠くから見ると、
まるでドレスのフリルのように魅える。

優しく波打つ裾。
海風を含んで、ひらり、ひらり。
そして、左右へ大きく広がる建物。

ああ、そうか。

クイーンは両腕を広げているのだ。
遠い海からやって来る人々を、
分け隔てなく迎え入れようとしている。

頂にいただくのは、エメラルドのティアラ。
まとっているのは、
可憐なフリルのドレス。
凛として、気高く、誇り高い。
でも、その顔には、
きっと優しい微笑みがある。

私はしばらく、
海を魅つめる女王様を思い描いていた。
中央には、小さなバルコニーのような
張り出しがある。
もしかしたら、
あそこがクイーンのお部屋なのかもしれない。

朝には海風を感じ、
夕暮れには港の灯を眺める。
王国の一日を見守る、女王様だけの場所。
もし私があの場所に立ったなら、
海はどんな色に見えるのだろう。

港を行き交う船も、遠くの水平線も、
きっと今とは違う表情を
魅せてくれるに違いない。

そんな想像をすると、
窓にも扉にも、
少しずつ表情が生まれてくる。

そして、お茶の時間。
お城の召使いたちが、
そろそろ紅茶を用意している頃かしら。
白いカップに注がれる、
香り高い紅茶。
お皿には、女王様のお気に入りのビスカウト。

ふふっ。気高いクイーンも、
この時間だけは、
ほんのり甘い笑顔になるのだろう。

そう思った途端、
馬車道十番館のビスカウトを
初めて口にしたときの記憶が、
ふっとよみがえった。

今風の軽やかなクッキーでも、
華やかな焼き菓子でもない。
角張った形。
手に取ったときの、しっかりとした重み。
ひと口かじると、
どこか懐かしい、
時代を感じさせる味わいが広がった。

あのとき、どうして私は、
少し不思議な気持ちになったのだろう。
美味しさだけではなく、
名前の向こうに、
長い時間が
眠っているように感じたのかもしれない。

ビスカウト。

その響きは、
ポルトガル語でビスケットを意味する「biscoito」に由来するという。
十番館のビスカウトは
横浜で生まれたお菓子。

それでも、名前をたどれば、
遠い海の向こうへ心が旅立つ。

ポルトガル。

ヨーロッパの西の端、大西洋に開かれた国。
まだ一度も訪れたことのない土地なのに、
地球儀の中でその場所を思い浮かべると、
不思議と海の匂いがしてくるようだった。

かつて大航海時代、
船に乗った人々が、
見知らぬ世界へと漕ぎ出していった。

日本へ伝わった鉄砲、
カステラ、金平糖、カルタ。
言葉も、食べ物も、遊びも、
海を越えて日本の暮らしへ入り、
長い時間をかけて、
それぞれの姿に育っていった。

そして今、私が魅つめているのは横浜の海。
港の向こうから、
新しい文化がやって来た街。
遠い異国の港でも、
同じように、
海の向こうを見魅つめていた人々が
いたのだろう。

クイーンの塔が
ポルトガルと直接結ばれているわけではない。
けれど、私の中では、
横浜とポルトガル、
二つの海辺の風景が、
ゆるやかに重なっていた。

海を渡ったのは、品物や文化。
時を渡ってきたのは、その記憶。
そして、その記憶を
そっと呼び覚ましてくれたのが、
小さな一枚のビスカウトだった。

では、なぜ私は、
そのビスカウトを、
クイーンのお気に入りにしたのだろう。
もう一度、塔を見上げた。

ティアラをいただく女王様。
風に揺れるドレス。
そして、海を魅つめる横顔。
ふと、幼い頃の自分が心の奥から顔を出した。

白雪姫やシンデレラ。
美しいお城と、夢見るお姫様。
いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる。そんな、少女の頃のときめき。
大人になって、いくつもの季節を越えてきた。

けれど、あの頃の夢は
消えてしまったわけではなかったのね。
きっと、心の奥で静かに眠りながら、
また光の当たる日を待っていたのだろう。

白馬の王子様が本当に現れるかどうかなんて、
もう問題ではないのかもしれない。
誰かを想って胸をときめかせること。
いつか訪れるかもしれない幸せを
夢見ること。
そんな心を、
今も持ち続けていられることが嬉しい。

キングの堂々とした姿にも、
ジャックの洒落た佇まいにも惹かれる。

でも、クイーンだけは、どこか違う。
私はあの姿を眺めているだけではない。
あの女王様の中に、
いつか憧れた自分を
重ねているのかもしれない。

気高く、誇り高く。
それでいて、
誰かを優しく迎え入れられる人でありたい。
そして時には、
お茶とビスカウトを楽しみながら、
心から笑っていたい。

気高さの中に優しさを。
優しさの中に、
ほんのり甘い恋心を。
そんなクイーンだからこそ、
私はこれほどまでに心を惹かれるのだろう。

いつの間にか、
さっきまで空に伸びていた
光の道は消えていた。
代わりに、太い筆で
何度もなぞったような雲が、
風に流されている。

まるで遠い異国から届いた、見えない手紙。
その筆跡のひとつひとつに、
かつて海を渡った人々の夢や、
異国から届いた文化の記憶が
宿っているようにも思えた。

私はもう一度、クイーンに目を向けた。
昨日生まれたビスカウト王国の女王様が、
今朝は少しだけ、
私のほうへ微笑み返してくれた気がした。

昨日は、気高いティアラに魅せられた。
今日は、その微笑みの奥に、
優しく甘い心を見つけた。

外から眺めていた王国が、
少しずつ私の心の中に住み始めている。
そんな気がした。

さあ、次はキングのもとへ。

王国にはまだ、
知らない心が隠れているのかもしれない。