第五部|行き交う心もまた旅人なり〜無一物中無尽蔵、終わらない心の旅〜
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山下公園を後にして、
私は再び横浜開港資料館へと足を向けた。
まだ門は閉じている。
けれど、その向こうには玉楠がいる。
そっと目を閉じた。
昨日は、その幹に触れたくなった。
今朝は、心の中で両腕を広げ、
あの大きな木を抱きしめていた。
風が吹く。
時代の向こうから、
幾つもの人々の鼓動が
伝わってくるようだった。
そして、不思議なことに、
その中には、いつかの私もいた。
何年も前の私。
昨日の私。
そして、今朝の私。
その時々の私がいたから、
今の私がここにいる。
思い出は、過ぎ去ったものではなく、
胸の奥で静かに息をしているのだろう。
そう思うと、
心にはいったいどれほどの広さがあるのか、
知りたくなった。
やがてキングの前の広場へ。
昨日は高いところから眺めた塔を、
今朝は地上から見上げていた。
ああ、やっぱり素敵。
天へ突き抜けそうな塔の先端。
朝の光を受けたその姿には、
近くで仰ぐからこそ感じられる
威厳と風格があった。
傍らには、そっと寄り添うクイーン。
そして、控えめに姿を覗かせる
ジャックの時計塔。
「また帰っておいで」
そんな声が聞こえた気がした。
この7日間、私は何度も三塔を魅つめた。
けれど、今朝の三塔は、
初めて出逢った日と同じ顔ではなかった。
変わったのは、塔ではない。
そこに心を通わせるようになった、
私の方なのだろう。
そして、ジャックのそばで、
思いがけない名前に出逢った。
岡倉天心。
あれ……。
岡倉天心といえば、フェノロサ。
その瞬間だった。
胸の奥にしまっていた扉が、
一気に開いた。
法隆寺。
夢殿。
救世観音。
ああ、夢殿。
学生の頃、何度も足を運んだ、
私の大好きな八角堂。
砂利を踏む、
じゃり、じゃりという音。
あの静けさ。
あの空間に、
聖徳太子の心が今も息づいている。
そんなふうに感じていた私。
かつて、梅原猛の『隠された十字架』に出逢い、
聖徳太子への興味を深めた私。
古代史のロマンを胸に秘め、
飛鳥へ、奈良へと足を運んだ日々。
古い寺院を訪ね、
遠い時代の人々の息遣いを感じながら、
その地で出逢った風景や、
心に浮かんだ想いを夢中で綴っていた。
ああ、懐かしい。
あの頃の私が、
今、心の奥からよみがえってくる。
私が知りたかったのは、
歴史に記された太子の姿だけではなかった。
国の未来を憂い、
人々の幸せを願ったであろう、
その心に触れてみたかったのだ。
夢殿は、太子の没後、
そのゆかりの地に建てられた八角堂。
けれど、私にはそこに、
太子の祈りが今も静かに
満ちているように思えた。
その夢殿の救世観音と、
岡倉天心、フェノロサがつながっていた。
なんということだろう。
横浜の街角に立っているのに、
心は遠い奈良へ飛んでいる。
あの八角堂の前で感じた、
若い日の胸の高鳴りまで、
一度によみがえってきた。
今朝、私は一本の玉楠を通して、
時代を生きた人々の心を想っていた。
そして今度は、
一つの石碑から、
何十年も前の自分へとたどり着いてしまった。
点から線へ。
線から、さらに線へ。
その線は途中で途切れるどころか、
思いもしなかった時代や場所へと
どこまでも伸びていく。
ああ、これが私の旅なのだ。
ふと、禅の言葉が浮かんだ。
「無一物中無尽蔵」
何も持たないように魅えて、
心の中には尽きることのない世界がある。
私には、そんな言葉に思えた。
拾った風景も、人の温もりも、
一度は忘れたと思っていた記憶さえ、
新しい光に触れれば、また輝き始める。
昨日まで知らなかったことが、
今日、遠い記憶を呼び覚ます。
その記憶が、
また新しい世界を連れてくる。
心とは、なんと不思議なものなのだろう。
そして、芭蕉の一節がよみがえった。
「月日は百代の過客にして、
行きかふ年もまた旅人なり」
私は心の中で、
そっと言葉を置き換えてみた。
「月日は百代の過客にして、
行き交う心もまた旅人なり」
少しおこがましいかしら。
でも、今朝の私には、
この言葉がしっくりと胸に収まった。
身体は横浜にあっても、
心は幕末にも、奈良にも、
そして、まだ見ぬ明日にも旅をする。
昨日の私が今日の私をつくり、
今日の私が、いつかの私をつくっていく。
その旅に、
本当の終わりなどあるのだろうか。
今日で、この7日間の横浜ステイは一区切り。
けれど、終わりの場所で、
私はまた新しい道を見つけてしまった。
また法隆寺へ行きたい。
あの砂利を踏みしめ、
夢殿の前に立ってみたい。
そして、そのときの私は、
今日の私とはまた違う何かを
感じるのだろう。
ねえ、風さん。
そろそろ朝の物語を閉じようと思うのに、
私の心は、まだ閉じてくれないの。
風が、そっと頬を撫でた。
それでいいのかもしれない。
旅には区切りがあっても、
心には終点を決めなくていい。
この7日間に出逢ったものは、
もう私の心の中で息づいている。
そして、その一つひとつが、
これからも新しい物語を
生み出してくれるのだろう。
私はまた一歩、歩き出した。
横浜の朝の光を浴びながら。
物語を閉じようとしたその先に、
新しい扉が、開いたままだった。
— Morimura