秋は夕暮れ。

清少納言が『枕草子』に綴ったこの一節に、
私は昔から心を惹かれてきた。

夕陽が山の端へと沈みゆく頃。
空の色は刻一刻と移ろい、
昼と夜とのあわいに、
ほんのひとときだけ現れる美しい世界。

千年という時を隔てても、
人が美しいと感じる心には、
どこか通い合うものがあるのだろう。

5〜6年前。
私は『清らなる時』という随筆の中で、
清少納言の「いとをかし」という言葉に
想いを巡らせていた。

そのとき、こんなことを綴っている。
「『気づき』のないところには、
『いとをかし』と
感じることもないのですから」

今、改めてこの一節を読み返してみると、
当時の自分が大切にしていたものが、
静かに蘇ってくる。

そう。

美しいものは、
ただそこに存在しているだけでは、
私の心の中に生まれてこない。
そこに気づくこと。
立ち止まり、心を向けること。
その瞬間に初めて、
目の前の景色は自分だけの風景になる。

当時の私は、
そんなことを考えていたのだと思う。
では、今の私はどうなのだろう。
あれから5〜6年。
さまざまな時間を重ねてきた。

そして今、日々の暮らしの中で、
私は以前にも増して
多くの小さな発見に
心を動かされるようになった。

まだ夜の名残をとどめる群青の空。
夜明けを待つ水平線。
薄紅色に染まる雲。
風に揺れる木々の葉。
水面に映り込む、もうひとつの世界。

かつてなら、
ただ美しいと眺めていたかもしれない景色。
けれど今は、
そこから思いがけない物語が
生まれることがある。

例えば、群青の空。
それは単なる夜明け前の空の色ではない。
まだ眠りから覚めきらない街を、
優しく包み込む静寂の色。

あるいは、心の奥深くにしまっていた記憶を、
そっと呼び覚ます色。

そして、ときには、
これから始まる一日への期待を
静かに膨らませてくれる色でもある。

同じ空を眺めていても、
昨日と今日では、そこに感じるものが違う。
いや、同じ瞬間でさえ、
心の向け方ひとつで、
まったく違う世界が広がることもある。

今日の横浜もそうだった。

澄み渡る青空。
そこに浮かぶ白い雲。
そして、大通り公園の木々の緑。

青、白、緑。

それぞれの色が互いを引き立て合いながら、
美しい調和を奏でていた。
ただ、それだけの景色。
けれど私は、
そこに自然が描いた一枚の水彩画を魅た。

そして、その色彩を心に映しながら、
なんとも清々しい気持ちになっていた。
これもまた、「いとをかし」なのだろう。

けれど、今の私には、その先がある。
景色に気づく。
美しさを感じる。
すると、その美しさが、
心のどこかに眠っていた記憶を呼び覚ます。

記憶は、また別の想いへとつながっていく。
そして、その想いから、
新しい言葉が生まれる。

気づきが感動を生み、
感動が記憶を呼び覚まし、
記憶が新しい世界を開いていく。
その連なりの中に、
今の私の創作があるような気がする。

不思議なものだ。
何かを書こうと机に向かっても、
なかなか言葉が浮かばないことがある。

ところが、朝の風を感じたり、
ふと空を見上げたり、
何気ない会話を交わしたりしているうちに、
思いがけず物語が生まれてくる。

ひとつの気づきが、
また次の気づきを連れてくる。
その先には、
まだ知らなかった自分の心の風景が
広がっている。

まるで、扉を開けても開けても、
次の部屋が現れるように。

私は最近、そんな心の働きを
「無尽蔵」という言葉で考えることがある。

無尽蔵。

尽きることのないもの。
それは、決して特別な才能や
豊富な知識だけを意味するのではない。

むしろ、日常の中に
散りばめられた小さな気づきを、
どれほど大切にできるかということ
なのかもしれない。

そして、もうひとつ。
今の私は、心の余白というものを
大切にするようになった。

何も考えていない時間。
ただ風を感じている時間。
言葉にならない想いを、
そのまま心に遊ばせている時間。

かつては、そんな時間を
空白だと思っていたこともあっただろう。

けれど、今は違う。
何もないように思えるその余白こそ、
新しい何かが
生まれる場所なのだと感じている。

ふとした瞬間に、遠い記憶が浮かんでくる。
忘れていた風景が蘇る。
思いもしなかった言葉が、
心の奥から顔を覗かせる。
そうして、ひとつの物語が生まれていく。

私は、それを無理に捕まえようとは思わない。
生まれてきたものを、
そっと受け取ればいい。
そんなふうに考えるようになった。

5〜6年前の私が大切にしていた「気づき」
そして今の私が感じている「心の無尽蔵」
このふたつは、決して別々のものではない。
むしろ、ひとつの小さな種が、
長い時間をかけて
枝葉を広げてきた姿なのではないだろうか。

あの頃の私が気づいたこと。
今の私が感じていること。
そのどちらもが、
私自身の心の中に生きている。

『清らなる時』から『あわい草子』へ。
それは、昔の自分を乗り越えることでも、
書き換えることでもない。

あの頃の感性を大切に抱きながら、
そこへ今の私が新しい光を当てること。

時を隔てたふたりの私が、
同じ景色を眺めながら、
静かに語り合うことなのだと思う。

清少納言は、秋の夕暮れを愛でた。
そして私は、
群青の夜明けにも、
秋の夕暮れにも、
風の通り道にも、
尽きることのない物語を感じている。

千年前の「いとをかし」
5〜6年前の「気づき」
そして、今の「心の無尽蔵」

そのすべてが、ひとつの時間の流れの中で、
静かにつながっている。

ああ、そうか。

「いとをかし」と感じる心は、
世界を美しく
眺めるためだけにあるのではない。
その美しさを入り口にして、
まだ知らなかった自分自身の世界へと
歩いていくためにもあるのだ。

そう思うと、これからの日々が、
また少し楽しみになる。

今日も、きっと何かに気づくだろう。
そして、その小さな気づきから、
またひとつ新しい物語が生まれるのだろう。

私の心の中には、
まだ開いていない扉が、
いくつもあるのだから。

— Morimura