第一部|馬車道、幻想の扉が開く〜ひと足早い舞踏会への招待状〜
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夜と朝のあわいを歩いていると、
ときどき、時間そのものが
ほどけていくような気がする。
橋を渡り、まだ人影の少ない通りへ入った。
つい先日まで、この街の建物や木々を通して、
私はずいぶん遠い時代を旅していた。
幕末から明治、大正、昭和へ。
今日という一日の向こうには、
幾重もの昨日が重なっている。
古い街並みに残る歴史は、
決して過去の中だけに
閉じ込められているわけではない。
あの玉楠も、幾度もの災いに耐えながら、
そこを行き交った人々の暮らしを
魅つめてきたのだろう。
移りゆく世の中を、
ただ黙って受け止める木の静けさ。
その傍らを生きた人々の足音まで、
今朝の道には残っているようだった。
そんなことを思いながら歩いていると、
ふと、目に留まったものがあった。
群青の看板に、金色の馬車。
あら、素敵。
クラシカルな馬車をあしらった、
なんとも洒落たクラブの紋章だった。
そして、その瞬間。
どこからともなく、音楽が聞こえてきた。
タン、タタン。
タン、タタン。
まるで馬車の車輪が、
石畳の上で
軽やかに時を刻んでいるような旋律。
どこから聞こえてくるのかしら。
耳を澄ませば、
どうやらビルの入口、
エレベーターのあたりから流れてくるらしい。
これまでも同じ道を歩いていたはずなのに、
私はどうして気づかなかったのだろう。
鳴っていなかったのか。
聞こえていなかったのか。
それとも、ただ、
耳を向けていなかっただけなのか。
ふふっ。
不思議ね。
そのビル全体が、
きらびやかに輝く
大きなスピーカーになったようだった。
同じ景色でも、
心を向けた瞬間から、
まったく違う表情を見せてくれることがある。 今朝のこの音楽も、
そんな小さな発見の
ひとつだったのかもしれない。
やがて、その旋律に誘われるように、
目の前の景色が少しずつ変わり始めた。
カパカパ、カパカパ。
あら、馬車が来た。
一台、また一台。
いつしか馬車道には、
何台もの馬車が美しい列をなして進んでいた。
馬たちは揃って軽快に足を運び、
その蹄の音がひとつの行進曲を奏でている。
馬車の車輪も、馬たちの足音も、
不思議なほど同じリズムを刻んでいた。
窓からちらりと見えたのは、
華やかなドレスをまとった貴婦人と、
タキシードにシルクハットを合わせた紳士。
その隣の馬車にも、
また、その隣にも。
美しく装った紳士淑女が、
優雅な時間を楽しんでいる。
淑女たちは微笑み、
紳士たちは穏やかに身を寄せて、
何やら楽しそうに語り合っている。
御者に向かって、
そっと声をかける紳士もいる。
「もう少し、ゆっくりでいいよ」
そんな言葉だったのかしら。
ひとつ馬車が通り過ぎるたび、
私の頬を風が撫でた。
どこへ向かっているのだろう。
そうだ。
明後日の土曜日には、
ビスカウト王国で舞踏会が催されるはず。
でも、今夜はまだ木曜日。
それなのに、
私の心の中の馬車たちは、
もう待ちきれないように王国へ向かっている。
「今度こそ、KINGとQUEENに
ご挨拶できるかしら」
そんな会話まで、
風に紛れて届いてきそうだった。
王国の大広間には、
きっと華やかな音楽が流れ、
美しいドレスの裾が優雅に舞うのでしょう。
琥珀色の灯りの下で、
幾組もの紳士淑女が踊る。
そんな光景まで、
私の心の中には浮かんでいた。
そして、最後に近づいてきた一台。
何気なく窓をのぞいた私は、
思わず息をのんだ。
あれ……?
そこに座っていたのは、
私?
琥珀色の光を宿したロングドレス。
結い上げた髪には、華やかな花飾り。
胸元には、繊細な輝きを放つアクセサリー。
そっと足元を見ると、
もしかしたら、
ガラスの靴まで履いているのかもしれない。
隣には、
私を優しくエスコートする紳士の姿。
でも、不思議なことに、
その顔だけは見えなかった。
一体、誰なのかしら。
問いかけようとすると、
馬車はするりと遠ざかっていく。
ふふっ。
これは、かぼちゃの馬車の魔法?
そういえば、
街はもうすぐハロウィンを迎える。
秋の夜のいたずらが、
ひと足早く
私に夢を見せてくれたのかもしれない。
それとも、
明後日の舞踏会から届いた、
少し早めの招待状なのだろうか。
そんなことを思いながら、
私は何台もの馬車を見送っていた。
やがて、馬車の列が遠ざかり、
音楽もゆっくりと薄れていった。
そのときだった。海から強い風が吹いてきた。
はっとして目を上げる。
そこには、見慣れた通りと、
静かに朝へ向かう空があった。
馬車も、ドレスも、
顔の見えない紳士も、
もうどこにもいない。
けれど、胸の奥には、
今しがた聞いた旋律だけが残っている。
現実の馬車道と、幻想のビスカウト王国。
そのふたつの世界を結んだのは、
たったひとつの旋律だった。
明後日の舞踏会へ、
ひと足先に届けられた招待状。
それは、紙でも封筒でもなく、
一筋の音楽と風でできていたのだろうか。
今日の私は、まだこの街を歩いている。
それなのに心は、
もう王国の扉に手をかけていた。
風さん。
あなたが連れてきたのね。
そう思って微笑むと、
風は答える代わりに、
もう一度だけ私の頬を撫でていった。
音楽が消えても、物語は消えない。
その旋律は、
心の奥で静かに響き続けていた。
そして私は、
まだ見ぬ朝の景色を求めて、
再び歩き始めた。